「見積は、長年の勘でやっているんだよ」
ベテランの経営者の方から、よく聞く言葉です。そしてたいてい、こう続きます。
「それを、どうやって次の代に渡せばいいか分からない」
この記事では、その勘をAIに引き継ぐ手順を、実際に進めている流れに沿ってご説明します。
はじめに:AIに勘を「持たせる」ことはできません
最初に、はっきりお伝えしておきます。AIが、ベテランと同じ勘を持つことはありません。
できるのは、別のことです。
そして、もうひとつ大事な前提があります。勘そのものも、時代とともに変わります。いまの勘は、いまの材料・いまの相場・いまのお客様に合わせて作られたものです。時代が動けば、勘のほうも動きます。
ですから、この取り組みは「保存して終わり」ではありません。残すことと、更新し続けることは、セットです。(詳しくは後半に書きます)
置き換えではなく、写し取って残す作業です。ここを取り違えると、「AIに仕事を奪われる」という話になってしまい、現場も協力してくれません。目的は、退職や引退でノウハウが消えてしまうのを防ぐことです。
勘は「分かれ目」に宿っています
ベテランの方に「どうやって見積もっているんですか」と聞くと、たいてい「勘です」と返ってきます。
これは、出し惜しみされているわけではありません。ご本人も、言葉にしたことがないだけです。何十年もやってきた判断は、考えるより先に手が動く状態になっています。
取り出すコツは、作業の手順ではなく判断が分かれた場所を聞くことです。
- この現場、最初に見たとき、どこが気になりましたか
- 同じような仕事でも、この案件だけ金額を上げたのは、なぜですか
- 新人がこの見積を作ったら、どこを直しますか
- この条件だったら、この仕事は受けませんか。それはなぜですか
最後の質問が、特に効きます。断る基準には、その会社の経験が全部入っています。過去に痛い目をみた条件、割に合わなかった客先、無理をして品質を落とした案件——「受けない理由」は、成功例よりも雄弁です。
AIに入れる形は、3つあります
聞き出したものは、次の3つに分けて入れていきます。
- 判断基準 常に守るルール。例:「築年数が古い物件は、やり直しの手間を見込む」「搬入経路が悪い現場は、半日分を足す」
- 事例 過去の実物。見積書と、実際にかかった金額の両方。
- 型 書式や言い回し。見積書の構成、お客様への説明文の調子。
いちばん効くのは、2つ目の事例です。暗黙知は、ルールを箇条書きにするより、「このときは、こう判断した」という実例を20件並べるほうが、はるかに正確に伝わります。
そして、見込みと実際がズレた案件ほど価値があります。うまくいった案件より、「思ったより手間がかかった」案件のほうが、勘の正体を教えてくれます。
精度は、答え合わせで上げます
いきなり本番で使わないことを、強くおすすめします。終わった案件で試すのが安全です。
- 過去の案件の「条件だけ」をAIに渡して、見積を作らせる
- 実際の見積と比べる
- ズレた理由を、ベテランに聞く → それが、まだ言葉になっていない勘です
- その基準を書き足して、もう一度試す
これを10〜20件くり返すと、どこまで任せられて、どこが任せられないかが数字で見えてきます。
「過去20件のうち17件は、許容範囲に収まった」と言えるようになる。
この状態になって、はじめて現場で使えます。そして、この答え合わせの過程そのものが、いちばん濃い引き継ぎになります。
任せる線と、任せない線
よくいただくご懸念に、こういうものがあります。
「時代の流れや、お客様との付き合いの長さで、金額は変わる。そこまでAIが分かるのか」
正直にお答えすると、そこは完全には反映できません。だから、線を引きます。
- AIの担当 拾い出し、数量の計算、材料名や表記の統一、書式づくり、たたき台の作成
- 人の担当 最後の金額を決めること。この客先に、いくらで出すかの判断
「値引きが一定以上になるときは、必ず社長の承認を通す」といった仕組みも設定できます。AIが勝手に出すことはありません。
手間はAIに、判断は人に。この順番さえ崩さなければ、怖い使い方にはなりません。
できること・できないことを、最初に分けておく
導入でつまずく原因の多くは、期待のかけ違いです。着手前に、3つに仕分けしておくと安全です。
- すぐできる:表記の統一、書式づくり、過去案件の整理、文章の作成。効果が早く出るので、ここから始めます
- 手間をかければできる:判断基準の言語化、見積のたたき台づくり。答え合わせを重ねる必要があります
- できない:将来の相場を当てること。過去の値動きを整理したり、仕入先からの通知を記録・比較することはできますが、先の値段を予測することはできません
3つ目を約束してしまうと、信頼を失います。できないことは、できないとお伝えするのが結局いちばん早いです。
はじめの一歩は、小さくて大丈夫です
全部を一度にやろうとすると、現場が止まります。おすすめは、こういう順番です。
- いちばん面倒で、いちばん判断が要らない作業を1つ選ぶ(表記の統一、書式づくりなど)
- それだけをAIにやらせて、1〜2週間使ってみる
- 楽になった実感が出てから、判断の部分に進む
先に小さな成功があると、ベテランの方も話してくれるようになります。「これなら、仕事を取られるわけじゃないな」と分かるからです。順番を逆にすると、まず警戒されます。
残すのは、技術ではなく「考え方」です
この取り組みを進めていくと、だんだん分かってきます。
残したいのは、作業の手順ではありません。なぜ、そう判断したのかのほうです。
手順書は、すでにある会社も多いと思います。それでも引き継ぎがうまくいかないのは、手順書に「判断の理由」が書かれていないからです。書いた本人にとっては当たり前すぎて、書く必要を感じないんですよね。
AIに引き継ぐ作業は、つまるところその「当たり前」を、一度ぜんぶ言葉にしてみる作業です。
そして言葉になったものは、AIだけでなく、次に入る人にも渡せます。ここがいちばんの価値だと思っています。
似た事例として、ベテラン退職に備えて属人化を解消するモデルケースも書いています。あわせてご覧ください。
ただし、勘は「更新し続けるもの」です
ここまで、勘を取り出して残す話を書いてきました。でも、ひとつ大事なことを付け加えておきます。
勘は、その時代の材料・相場・お客様に合わせて作られたものです。時代が変われば、正しい判断も変わります。昨日までの最適解が、今日の最適解とは限りません。
長く続いている会社の社長さんにお会いすると、だいたい共通しています。経験が豊富なのに、新しいことを平気で聞いてくる。「それ、知らないから教えて」と言える。昔のやり方に固執していません。
つまり、あの「勘」は、何十年も前に完成して止まったものではないんです。毎年、少しずつ書き換えられてきた結果が、今の勘です。
だとすると、注意すべき点が見えてきます。今の判断基準をそのまま固定して残すと、「ある時点の勘」を会社に残すことになります。材料も、相場も、お客様の求めるものも変わっていくのに、基準だけが止まってしまう。
ですから、残して終わりにしないことです。
- 半年から一年に一度、判断基準を見直す時間をとる
- 見込みと実際が大きくズレた案件が出たら、その都度その理由を書き足す
- 「昔はこうだったが、今はこう変わった」という変化そのものも残しておく
この3つ目が、特に効きます。変化の理由まで残っていれば、次の代の人は「なぜ今この基準なのか」を理解したうえで、自分で次の更新ができるからです。
残すのは、答えだけではありません。答えを更新してきた、その考え方のほうです。
おわりに
勘は、消えません。でも、そのままにしておけば、その人と一緒にいなくなります。
引退や退職が決まってから慌てて始めると、時間が足りません。まだ現役で、毎日判断している今だからこそ、取り出せるものがあります。
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※ 本文中の例は、進め方をご説明するためのものです。実際の進め方・期間は、業種や業務の内容により異なります。