情報は、こんなに浴びているのに
いまは、情報が足りない時代ではありません。スマホを開けば、朝から晩まで何かが流れてきます。世界のニュースも、専門家の解説も、他人の意見も、無限に手に入る。
それなのに、本を読む人と読まない人の差は、昔よりむしろ大きくなっている気がしています。
情報量の差ではないんです。では、何が違うのか。ずっと考えていて、いくつか思い当たることがあります。
違い① 他人の頭の中に、長く滞在するかどうか
SNSで受け取るのは、断片です。一行の意見。切り取られた結論。数十秒の動画。
そこにあるのは「その人が到達した答え」だけで、どうやってそこまで行ったかは入っていません。
本は、そこが逆です。一人の人間が何年もかけて考えたことを、数時間かけて、最初から順番にたどることになります。途中の迷いも、失敗した仮説も、含めて全部です。
これは、他人の思考の中に長く滞在する体験です。そして滞在しているあいだ、こちらの思考の速度は、その人に合わせて動くことになります。
この時間があるかないかで、数年後にはかなりの差が出ると思っています。
違い② 自分と違う意見から、逃げられないかどうか
SNSは、快適にできています。自分が興味を持ったものが表示され、同じ意見の人が集まり、違う意見はミュートできる。つまり、自分の考えが強化される方向にしか動かない。
本は、そこが不便です。読みはじめてから、途中で「そうは思わない」と感じることがある。でも、もう買っています。半分まで読んでいる。だから、いったん最後まで聞くことになる。
その、逃げられない時間で、「あ、そういう見方もあるのか」が起きる。見解が深まるのは、たいていここです。
賛成できなかった本のほうが、あとから効いてくることも多いです。
違い③ 「知らないことがある」と気づけるかどうか
これがいちばん大きいかもしれません。
検索は、便利です。でも、知っていることしか検索できません。言葉を知らなければ、調べられない。問いを持っていなければ、答えにたどり着けない。
だから検索だけで生きていると、自分の世界の外側があること自体に、気づかなくなります。
本は、そこを壊してくれます。読んでいる途中で、考えたこともない問いが飛んでくる。自分が何を知らなかったのかを、教えてくれる。
読書の効き目は、たぶんそこにあります。
違い④ 想像する力が、広がっていくかどうか
そして、いちばん大きいのは、これかもしれません。本は、想像力を広げます。
テレビや動画は、映像が向こうから与えられます。顔も、景色も、声も、間の取り方も、全部もう決まっている。こちらは、座って受け取るだけで成立します。
しかも、止まってくれません。こちらが考えていようが、心を動かされていようが、映像は同じ速度で先へ進んでいきます。想像するための「間」が、そもそも用意されていない。
本は、逆です。一行の文章から、その部屋の光の入り方も、季節の匂いも、話している人の表情も、自分の頭が立ち上げないと、話が進まない。読者が作らなければ、そこには何もないんです。
だから読書のあいだ、私たちは受け取りながら、同時に作っています。そしてページをめくる速度は、こちらが決められます。気になったところで止まって、想像している時間が許されている。
分かりやすい例があります。同じ物語でも、テレビドラマで見ると、主人公の顔は俳優の顔に決まります。みんな同じ顔を見ている。でも小説で読むと、読んだ人の数だけ、違う顔があります。
子どものころ読んだ本の場面を、いまだに映像で覚えている人は多いと思います。それは、誰かに見せられた映像ではなく、自分が作ったものだからです。自分で作ったものは、残ります。
イメージする力は、生まれつきの才能というより、使った量で伸びるものだと思っています。テレビは、想像しなくても楽しめます。本は、想像しないと楽しめません。その差が、何年も積み重なっていく。
想像力が広がると、何が変わるか
これは、趣味の話ではありません。生きるうえで、直接効いてきます。
人の気持ちが、想像できるようになる。会ったことのない立場の人を、思い描けるようになります。病気の人。国を出た人。百年前の人。自分と正反対の考えを持つ人。想像できる相手には、雑に接することができません。やさしさの正体の半分は、たぶん想像力です。
まだないものを、思いつけるようになる。新しい仕事も、新しいサービスも、最初はいつも誰かの頭の中にしかありません。見たことのないものを描けるかどうかは、そのまま、作れるかどうかになります。
そして、自分の選択肢が増える。これがいちばん大きいと思っています。
そういう生き方があると知らなければ、それを選ぶことは一生ありません。自分にもできると思い描けなければ、手も伸びません。だから、こう言ってもいいと思います。
本を読むというのは、その範囲を、静かに広げていく作業なんだと思います。
AIの時代だからこそ、効いてくる
ここは、仕事の話として書き足しておきます。
AIは、聞けば答えてくれます。とても速いです。ただ、何を聞くかは、こちらが決めなければいけません。検索と同じで、問いを持っていない人には、AIも力を貸しようがないんですよね。
この「問いを立てる力」は、別の記事にも書きましたが、読書で育つ部分がかなり大きいと感じています。知らない世界に触れた数だけ、聞けることが増えていくからです。
そして、一人で事業をしていると、自分の頭の中だけで完結してしまう危険があります。相談する相手も、反対してくれる人もいない。本は、その役を安く引き受けてくれます。何年も考えた人の頭の中に、千円ちょっとで入れてもらえるわけですから。
旅は、体でする読書
そして私にとって、本と同じくらい必要なのが、旅です。この二つは、似ているようで、深めるものが違います。
旅は、自分の見解を深めます。現地に立って、匂いを嗅いで、食べて、人と話す。そこで動くのは、知識ではなく感覚のほうです。「こんな暮らし方があるのか」「自分が当たり前だと思っていたことは、当たり前じゃなかった」——体で受け取った違和感は、知識と違って、忘れません。
本は、知識の見解を深めます。旅で受け取ったものに、あとから名前がつく。「あのとき感じたことは、こういうことだったのか」と分かる瞬間があります。
だから、どちらか一方では足りないんですよね。
- 旅だけだと、感覚は広がるけれど、言葉にできない
- 本だけだと、言葉はあるけれど、体感が伴わない
私には、両方とも必要でした。
世界が近い、というのは地図の話ではない
日本にいても、世界のことは分かる。ネットがあるのだから——と言われます。でも、これは半分だけ本当だと思っています。
私が本当に「世界が近くなった」と感じたのは、情報が手に入るようになったからではありません。そこに、友人ができたからです。
友人がいる国のニュースは、他人事になりません。地震があれば、真っ先に顔が浮かぶ。選挙の結果が出れば、あの人はどう思っているだろうと考える。同じニュースなのに、届き方がまったく違います。
そして友人は、検索では手に入りません。行って、会って、一緒に時間を過ごすしかない。ここだけは、どれだけ情報化が進んでも、たぶん最後まで変わらないところです。
出さなければ、自分のものにならない
もうひとつ、最近いちばん強く感じていることがあります。アウトプットです。
読んだこと、行った場所、出会った人。そこで得たものは、しまっておくと、思っているより早く消えます。でも、書くと残る。話すと残る。
しかも、出すときにはじめて、自分が何を分かっていて、何を分かっていないかが見えます。出すという作業そのものが、理解の続きなんですよね。
そしてもうひとつ。出していると、人が集まってきます。同じことに関心のある人。もっと詳しい人。そして、次の旅や次の出会いにつながる人。
この輪が回りはじめると、学ぶスピードが、一人でやっていたときとは変わります。私が今やろうとしているのは、たぶんこれです。読んで、行って、出会って、出す。その全部を、止めずに回し続けること。
責める気はありません。ただ、もったいない
本を読まない人を、責める気はまったくありません。時間がない人もいるし、活字が合わない人もいる。本以外の方法で、深く世界を見ている人もたくさんいます。
ただ、正直に書きます。とても、もったいないと思っています。
人生は、一度きりです。一人の人間が自分の体で経験できることには、限りがあります。行ける場所も、会える人も、使える時間も、全部きっちり有限です。どれだけがんばっても、生きられるのは一回分だけ。
でも、本を開けば違います。自分では絶対に経験できなかった人生を、何度でも通ることができる。百年前を生きた人の頭の中に入れるし、一生行くことのない国の暮らしも見られる。会うことのなかった人の、四十年分の答えを受け取れる。
一度きりの人生を、何倍にも使える方法が、千円ちょっとで、そこに置いてあるんです。しかも、いつでも開ける。誰の許可もいりません。
それを一度も開かないまま終わるのは、やっぱり、もったいないと思ってしまいます。
自分の外側に、出ていく
世界は、たしかに近くなりました。でもそれは、こちらから見に行った人にとってだけ、近いのかもしれません。情報が流れてくることと、世界を見ていることは、別のことです。
本を開くのも、飛行機に乗るのも、やっていることは同じだと思っています。
そして、そこでもらったものを、また誰かに渡していく。一度きりだからこそ、狭いままでは終わりたくない。私は、それを続けていきたいと思っています。
(文:佐藤雅代)